宇都宮地方裁判所 昭和31年(ワ)197号 判決 1962年12月08日
原告 石井啓愛
被告 国
訴訟代理人 横山茂晴 外三名
主文
一、原告所有の栃木県塩谷郡船生村大字船生宇柿の入七八四三番山林と、被告所有の同村大字船生字寺小路入七八四六番森林との境界は、右両土地の境界であることにつき当事者間に争いのない三〇七と刻んだコンクリート標柱を基点として、別紙第一表記載の方位と距離をたどり、三一六と刻んだ御影石標柱を経て、三二一と刻んだ御影石標柱に至る線であることを確定する。
二、訴訟費用は原告の負担とする。
事 実 <省略>
理由
(一) 原告所有の栃木県塩谷郡船生村大宇船生字柿の入七八四三番山林が、その東側と南側において、被告所有の同村大字船生字寺小路入七八四六番森林と隣接していること、及び右七八四三番の東側の部分において別紙第二図面の302から307までを結ぶ線の範囲が七八四六番との境界であること、は当事者間に争いがない。
(二) ところで、被告は右両土地の境界として被告が主張している線は旧国有林野法に基き明治四〇年九月に行われた境界査定処分によつて明治四一年一〇月一一日に確定したものであると主張するのに対し、原告は右境界査定処分の存在並びにその効力を否定しているので、本件の争点は専らその前提問題である右境界査定処分の存否とその有効無効にかかつているわけであり、右境界査定処分の存在については被告側に、右処分の無効については原告側にそれぞれ立証責任があるわけであるから、以下順次にこれらの争点について検討する。
(三) まず、右境界査定処分の存否について判断するに、
(1) 成立に争いのない乙第一号証の一、二、同第五号証の一、二と、証人佐藤市太郎同藤中伝の各証言によると、下野国塩谷郡船生村大字船生字ハツキリ七八四八番、七八九四番、七八九五番、七八九六番、字石久保七九一五番、字牛沢七八四八番、字アゲクラ沢七八四九番、字寺小路入七八四六番(本件係争地)の各国有林野について、明治四〇年九月から明治四一年三月にかけて、隣接民有地との境界につき境界査定が行われたことを認めることができる。
(2) ところで原告は、右境界査定処分の結果は、隣接地たる本件柿の入七八四三番の当時の所有者である原告先々代石井省一郎に通告されなかつたから、同人に対して効力を生ぜず、従つて同人のために存在しないと争うのであるが、
(イ) 右境界査定処分は後に述べるように旧国有林野法並びに国有林野測量規程に基いて行われたもので、前記乙第五号証の一、二と証人佐藤市太郎の証言によると、
右船生村大字船生字ハツキリ外四箇所の境界査定処分は一団地として施行され、明治四一年四月一四日頃までに結了したので、当時の所管庁である東京大林区署長から地元所管庁である矢板小林区署長に対し、明治四一年四月一四日附特第二六五号を以て、境界査定簿一冊と境界査定図一部及び境界査定通告書一二通を送付するから、右境界査定通告書を隣接地所有者各本人に交付し、領収証を徴した上返付すべき旨を下命し、よつて矢板小林区署長は同年五月二五日頃から同年八月一二日頃にかけて境界査定通告書を各隣接地所有者に交付しそれぞれ領収証を徴した上、同年一〇月一五日に之等領収証を添えて東京大林区署長に交付完了の旨を復命した。
而して本件柿の入七八四三番の当時の所有者石井省一郎に対しては(前記乙第一号証の一、二によると同人は当時柿の入七八四四番及び寺入七七八八番ロ号の山林も所有していたことが明かである)、明治四一年七月一五日より前に船生村船生の手塚徳なる者に、石井省一郎の代理人として、手塚徳分と共に境界査定通告書を一旦交付したものであるが、手塚徳から、この両者の境界査定通告書を何れかへ紛失して了つたから再下付して欲しいとの申請が同年七月一五日に矢板小林区署長に提出されたので、矢板小林区署長はその旨を東京大林区署長に上申し、東京大林区署長がこれを許容して石井省一郎分と手塚徳分の境界査定通告書を再送して来たので、矢板小林区署長は同年八月一二日に重ねて手塚徳に対し、同人分と石井省一郎の代理人として石井省一郎の分を再交付してその領収証を徴し、前述の如く同年一〇月一五日に東京大林区署長に対し交付完了の旨を復命したのであつた。
以上の事実が認められる。
而して後に述べるように本件においてはその当時徴された境界査定処分通告書の領収証や委任状等は現存しないのであるが、当時施行されていた国有林野測量規程によると境界査定に隣接地所有者を立会わせる場合においても、若し代理人が立会う場合には、境界査定官吏は委任状を徴さねばならず、必要ある場合にはその資格を調査しなければならない旨が規定されていたのであるから、境界査定通告書を代理人に交付する場合にも無諭委任状を徴したものと思われ、殊に前述のように、手塚徳が一旦石井省一郎の代理人として境界査定通告書を受領しながら、これを紛失したと言つて再下付を願出たような場合には、更に慎重を期して手塚徳の代理資格を調査し、同人が石井省一郎の代理人であることを確認した上で再交付したであろうことが十分推認される。
(ロ) 更に前記乙第一号証の一、二、乙第五号証の一、二と、成立に争いのない甲第七第八号証、及び公証部分の成立に争いがなくその余の部分は原告本人の供述によつて成立が認められる甲第五第六号証の各一、二、並びに証人新葉米蔵相良育三、上野柳一、手塚林吉の各証言、原告本人の供述などを綜合すると、石井省一郎は福岡県小倉の人で、明治一六年頃は内務省の土木局に勤務し、その後岩手県知事、茨城県知事などを歴任し、明治四一年四月当時は本籍は盛岡市大清水小路へ移してあつたが、住所は東京市芝区高輪台町三七番地にあつて、明治四一年四月当時から昭和五年一〇月二〇日に死亡するまで貴族院議員をしており、且つ明治四一年当時は錦鶏間祗候をしていた人であるが、同人は明治一二年頃栃木県塩谷郡船生村地内に本件山林を含めて相当広い山林を買求め、福岡県小倉から米田円司という人を連れて来て之等山林の管理をさせ、そのような関係から相当以前から船生村に山林管理事務所を置いていた。そして米田は明治三〇年頃まで山林の管理をしており、その後は石井省一郎は船生村の素封家手塚栄治に右山林の管理を委任し、同人は明治三七、八年頃まで管理人をしていたがその頃死亡し、手塚徳は右栄治の息子で石井省一郎の娘を嫁に貰つて栄治と同居していた関係上、栄治死亡後は省一郎はしばらくの間、徳に右山林を管理させていた。ところで手塚徳は相当金づかいが荒く、一方石井省一郎は大変几帳面な人で、船生へ来ても一つ一つ物事を処理するような人であつたので、徳は省一郎にあまり信用されず、その後省一郎は徳に右山林の管理をやめさせ、相良徳吉なる者を管理事務所に住わせて山林の管理をさせ、なお上野吉三郎やその子勇一郎等に頼んで山林の見廻りをさせていた。以上の事実が認められ、前記各証人の証言及び原告本人の供述中、右認定に牴触する部分は当裁判所はこれを採用しない。
而して右に認定された事実によると、手塚徳は、その時期は必ずしも明確ではないが、明治三七、八年頃手塚栄治が死亡してから一定期間、石井省一郎から委任されて本件山林等を管理していたことが明かであり、(ちなみに原告本人は昭和三二年五月一日の口頭弁論において、「私が五才位の頃は手塚徳が管理していたことを憶えている」と供述しているのであつて、原告は右昭和三二年当時四三才であるから、同人が五才位頃と言えば大正七、八年頃ということになる)、前記乙第五号証の一に、明治四一年八月一二日手塚徳が同人分と共に石井省一郎の代理人として石井省一郎に対する境界査定通告書をも併せて交付を受けた旨の記載が存することと合せ考えれば、その当時手塚徳は石井省一郎から委任されて本件山林を管理しており、同人の代理人として右境界査定通告書を受領したものとみて差支えない。
(ハ) この点に関して原告は、乙第一号証の一の中にある境界査定通告書再下付願によると、「石井省一郎帰省まで預り置き候処手塚徳分と共に何れへか紛失仕り」とあるところからみると、手塚徳は唯単に石井省一郎が帰省するまで通告書を預つていたに過ぎないことが明かであるから、同人に通告書受領の代理権がなかつたことが明白であるというが、右の如き文言があるからといつて、それだけで直ちに手塚徳に通告書受領の代理権がなかつたものとすることはできない。
更に原告は、手塚栄治は石井省一郎から本件山林の管理を委任されていたが、その息子の徳は管理を委任されておらず、然も手塚徳が通告書を受取つたのは「手塚徳分」とあることからみて栄治死亡の後であることが明かであるから、手塚徳の通告書受領は何等の代理権なくしてなされたものであるというが、前述のように手塚栄治死亡後、手塚徳が或る期間石井省一郎から本件山林の管理を委任されていたことが認められるのであるから、右の主張も理由がなく、他に右認定を覆えすに足る反証は存しない。
(ニ) 若し万一手塚徳に右境界査定通告書を受領する権限がなかつたとしても、石井省一郎と手塚徳との間に既に述べたような特殊な身分関係があつたことからみれば、徳に省一郎宛の通告書を受領する代理権があるものと信ずべき正当の事由があるということもできる。
(3) そうすると、右境界査定通告書は、隣接地たる本件七八四三番の当時の所有者である石井省一郎に適法に送達されたものと認められるから、右境界査定処分は石井省一郎に対して効力を生じ、従つて右処分は同人に対して有効に存在したものということができ、前記乙第五号証の一、二によれば、右通告書が送達された明治四一年八月一二日から六〇日以内に不服の申立がなかつたことが認められるから、右査定処分は明治四一年一〇月一一日に確定したものということができる。
(四) 次に、原告は、右境界査定処分はその手続に重大明白な瑕疵があるから無効であると主張するので、この点を以下に検討する。
(1) 旧国有林野法(明治三二年法律第八五号)によると、
第四条に、国有林野の境界査定は当該官庁に於て予め期日を定め隣接地所有者に通告して其の立会を求め施行すべし。隣接地所有者予定期日に於て立会はざることあるも当該官庁は境界査定を施行することを得。
第五条に、国有林野の境界査定を終へたるときは当該官庁は直に隣接地所有者に通告すべし。
と規定され、
更に国有林野測量規程(明治三三年農商務省訓令第三三号)によると、
第五条に、境界査定官吏は予め地租改正の当時及地租改正後土地丈量の際調整したる書類図面、官林台帳、旧記、旧図、其他境界判定の資料となるべき書類物件を調査し尚ほ実施に就き境界の状況、附近の地形林相等を観察して境界査定に着手すべし。
第六条に、隣接地所有者が代理人を以て境界査定に立会を為さしむるときは境界査定官吏は委任状を徴すべし。隣接地所有者の法律上代理人若は管理人が立会を為す場合に於て必要と認むるときは其資格を証明する書面を徴すべし。
第七条に、境界査定官吏必要と認むるときは市町村長、地方庁吏員其他関係人の立会を求むべし。
第八条に、境界査定官吏境界査定を施行したるときは境界の保存上必要と認むる箇所及県、国、郡、市、町、村、大字を異にし又は隣接地の地目地番異なる毎に境界査定標を建設すべし。
第九条に、境界査定官吏一地区の境界査定を施行したるときは境界査定図及境界査定簿を調製し之を所属上官に差出し其承認を受くべし。隣接地所有者境界査定官吏の査定に不服を唱へたるとき又は立会を為さざるときは其始末書及関係書類を、行政区界の判明せざるものに付ては其事由を記載したる書面を前項の書類と共に差出すべし。
と規定されている。
(2) 而して証人佐藤市太郎の証言によると、境界査定は当時においても右の法律規程に従つて厳格に行われたもので、境界査定官吏が境界査定図及び境界査定簿を調製して所属上官に差出す場合には、立会通知書の領収証、代理人が立会通告書を受領した場合にはその委任状、立会人の氏名、代理人が立会つた場合にはその委任状をも併せ添付して差出さねばならず、若し之等の書類が添付されてなければ上司の審査が通らず、その承認が得られなかつた。そして上司の審査が通つて境界査定の承認があると、次に隣接地所有者に境界査定の結果か通告されるのであるが、代理委任状がない者には通告書を交付しないし、通告書の交付が済めばその領収証や委任状を添付して上司に復命することになつていた、ことが認められる。
(3) ところで、右証人佐藤市太郎、同藤中伝の各証言と、昭和三二年一〇月二八日附東京営林局長及び同年一一月五日附前橋営林局長の各回答によると、本件境界査定に関する書類は、乙第一号証の一、二(境界査定簿及び境界査定図)と、乙第五号証の一、二(境界査定書類綴)が地元所管庁たる矢板小林区署(後の矢板営林署)に残つているだけで、その他の書類は上級官庁たる東京大林区署に保管中大正一二年の震災の際に焼失して了つて現存しないことが認められる。
(4) 然しながら前述したように、境界査定に関する手続は法律や規程で詳細明瞭に定められており、所管庁や査定官吏がその法律規程に従つて査定を行うべきことは当然の要請であり、そして本件境界査定処分については、既述のとおり、その査定処分の結果の通告が隣接地所有者たる石井省一郎に適法になされていると認められるのであるから、反証のない限り同人又はその代理人たる手塚徳或は手塚栄治に対し適法に立会の通告もなされ、右本人又は代理人が査定に立会つたものと認めるのが相当であつて、そのことは右境界査定処分について所定期間内に何等の不服申立もなく確定したことからも十分推認される。
(5) 而して本件において、原告は右境界査定処分の手続に重大明白な瑕疵があるとして処分の無効を主張しているのであるが、前記認定及び推認を覆えして、石井省一郎又はその代理人に「立会の通告及び処分の結果の通告がなされなかつた事実」を認めるに足る立証責任を尽し得なかつたから、原告の右主張は容認するを得ない。
(五) 更に、原告は、右境界査定処分は、公図(山岳図)や甲第四第九号証の図面と比較してその内容に重大明白な瑕疵があるから無効であると主張するので、この点を以下に検討する。
(1) 成立に争いない乙第一号証の一、二、同第二号証、同第三号証の一、二、同第四号証、同第七ないし第一五号証と、証人藤中伝、鈴木丙馬、長田英雄の各証言を綜合すると、被告所有の船生村大字船生字寺小路入七八四六番の国有林は、元石井省一郎所有の字柿の入七八四四番の北側から東側を取囲み、更に七八四四番の南東部に隣接する本件柿の入七八四三番の東側から南側を取囲み、更に七八四四番の南西部に隣接する字寺入七七八八番ロ号及びこれに南隣する七七八八番イ号の東側に隣接して存在する広大な地域で、境界査定番号269から302までは七八四四番の北側から東側を繞る境界、302から307までは七八四三番の東側との境界、307から321までは七八四三番の南側との境界、321から324までは七七八八番ロ号の東側との境界、324から331までは七七八八番イ号の東側との境界として境界査定簿及び境界査定図に表示されており、その面積は八三町八反四畝九歩で、前記境界査定処分が行われた当時は原野であつたが、その後明治四二年頃から矢板小林区署が造林してその管理経営にあたり、昭和一二年三月三〇日宇都宮高等農林学校(後の宇都宮大学)の演習林として文部省に管理替され、爾来今日に至るまで同学校がこれを管理していることを認めることができる。
(2) ところで、宇都宮地方法務局船生出張所及び塩谷郡船生村役場(現在塩谷村船生支所)備付の公図(山岳図)の検証の結果によると、之等山岳図の上では、字寺入七七八八番の東側の北寄の部分は原告所有の七八四三番に隣接し、南寄の部分は被告所有の七八四六番に隣接しており、
また右公図検証の結果と証人斎藤信市郎の証言とによって、右船生村役場備付の山岳図を写したものに、所有者の氏名と面積と分割線を書入れた図面であると認められる甲第四第九号証によると、之等図面の上では、右寺入七七八八番はイ号、ロ号、ハ号の三筆に分割され、七七八八番ロ号の東側と七七八八番ハ号の東側の北寄の部分は原告所有の七八四三番に隣接し、七七八八番ハ号の東側の南寄の部分は被告所有の七八四六番に隣接していることが認められる。
(3) 従つて右公図(山岳図)並びに甲第四第九号証の図面に表示されている七八四三番及び七八四六番の位置と、乙第一号証の一、二の境界査定簿並びに境界査定図に表示されている七八四三番及び七八四六番の位置とは、七七八八番の東側における隣接関係の点から見ると明かに喰違いがあり、即ち前記公図(山岳図)並びに甲第四第九号証の図面上において七七八八番の東隣に存在する七八四三番の部分が、乙第一号証の一、二の境界査定簿並びに境界査定図においては、北方に押上げられたような或は南方から七八四六番に併呑されたような格好になつていることが認められる。
(4) 然しながら公図は、明治九年頃主として租税徴収の目的で民有地の範囲区分を明かにするために作成されたもので、当時においては測量技術も未熟であり、殊に山岳図はその地形の複雑と測量の困難から実測に基いて作成されたものではなく、一般に見取図と称されているくらいで、民有山林の大体の形状と区分をおおまかに図示したものに過ぎないので、実際の地形、形状と合致しない場合が屡々存することは殆んど公知の事実といつても過言ではない実情にあるから、山岳図は境界確定に際して決定的な権威があるものではなく、従つて山岳図のみに基いて境界を判定することは危険であり、実際に境界を判定する場合には、公図を一つの参考資料としながら、現地における地形地物、附近の状況等を仔細に観察した上で、土地の古老や当事者から従来の土地の支配関係などを聞き、之等を綜合して判定するのが通例である。
ところで国有地と民有地の境界を定める境界査定処分においても、既に述べたように、査定官吏は、公図や土地台帳や官林台帳その他境界判定の資料となるべき書類物件を調査した上、現地において土地の状況、附近の地形林相等を観察し、且つ隣接地所有者を立会わしめてその意見を聞き、必要ある場合には市町村長や土地の古老利害関係人などを立会わせてその意見を聞いた上、実測して境界を判定すべきことが規定されているのであつて(前掲国有林野測量規程)、証人佐藤市太郎の証言によると、実際においても境界査定処分は右規程に従つて厳格に実施されていたことが認められるから、本件境界査定処分も同様の方法で実施されたものと推認される。そうすると本件境界査定処分を行う際には勿論、前記宇都宮地方法務局船生出張所及び塩谷郡船生村役場備付の公図(右船生出張所備付の土地台帳附属図は以前は税務署に保管されていたものが管理替によつて法務局に保管されるようになつたことは公知の事実であり、また役場備付の公図は一般に右土地台帳附属図作成の際その元図となつたもの又はその副本である場合が多いのであつて(右図面検証の結果によると、船生村役場備付の公図には明治一二年山岳地引見取図と記載されていることが認められる)を本件境界査定の参考資料として調査検討した上、現地の土地の状況や附近の地形等を観察し、且つ隣接地所有者や村長古老などの立会人の意見をきいた上で査定がなされたものと思われ、従つてその当時既に右公図と査定の結果が喰違うことになつたことは当事者間に判つていた筈であると思われる。
然るに明治四一年八月一二日頃右境界査定処分の結果の通告を受けた石井省一郎は何等不服の申立もなさず、且つ右境界査定処分以来矢板小林区署が本件係争地域を管理し、殊に明治四二年頃からは同林区署が右地域に造林してこれを育成管理して来たのに拘らず、その事実を知つていた筈の石井省一郎の管理人からも、或は管理人からの報告によつて右の事実を知つたであろう石井省一郎本人からも、何の苦情も出ずに経過し、昭和五年一〇月二〇日に同人が死亡するまで問題がなかつたのであるから、この事実に鑑みれば、石井省一郎は当時既に境界査定の結果が公図の記載と一致しないことを諒承し、これを納得していたことを窺うに十分である。
ところで原告本人の供述と証人藤中伝、鈴木丙馬、長田英雄、森田一明、上野柳一の各証言を綜合すると、石井省一郎死亡後そのあとを相続した石井正愛も、昭和二七年頃までは本件山林の境界について別段異議なく経過していたが、昭和二七年頃甲第四号証の図面を発見して山林の現況と図面の記載か異ることを知るや、その頃から疑問をいだいて林野庁や所管署と交渉するに至つたことが認められるのであるが、以上に述べたような山岳図の性格と、境界査定処分が行われた当時公図もその資料に供されているという事実からみれば、今に至つて、単に山岳図の記載と境界査定処分の結果が喰違つていることを根拠として、右境界査定処分の内容に重大明白な瑕疵があるとは言い得ないのであつて、他に原告提出の全立証によるも原告主張の右無効原因を証明することを得ない。
(5) なお本件では、乙第一号証の一、二の境界査定簿及び境界査定図の上では、被告所有の七八四六番は、その西側において、斎藤吉三郎手塚太吉所有の寺入七七八八番イ号に隣接していることになつているのに、甲第四第九号証の図面では、斎藤所一郎外七名所有の寺入七七八八番ハ号と隣接していることになつている点も、一応問題になつているのであるが、宇都宮地方法務局船生出張所備付の土地台帳の記載によつて当裁判所に顕著なところによれば、寺入七七八八番イ号は明治二五年九月二四日分裂届出によつてイ号とハ号に分割され、イ号は斎藤彦吉が所有し、ハ号は斎藤所一郎外七名が所有していたが、その後イ号ハ号とも所有者が次々に変り、明治三二年八月二日からはイ号ハ号とも同一人の所有に帰し、本件境界査定処分が行われた明治四一年当時はイ号ハ号とも斉藤吉三郎と手塚太吉の共有となつており、現在では両方とも手塚伝吉と手塚林吉の共有となつているのである。従つてイ号ハ号とも同一所有者に属する関係上、その所有者が地番の区別をゆるがせにして、ハ号であるべき場所をイ号と指示し、又はイ号であるべき場所をハ号と指示することもあり得ることであつて、斯様なことから前記の如き喰違いが生じたものと考えられ、現に現在の所有者である証人手塚林吉も右の場所を七七八八番イ号であると証言しているくらいであるから、右の場所が七七八八番のハ号であるにしても、イ号であるにしても、本件境界査定処分の効力に何等影響を及ぼすべきものではない。
(六) 更に、原告は、右境界査定処分によると、査定番号321から302までの間が七八四三番に隣接していることになつているのに、実際においては、321から316までの間は七八四四番に隣接し、316から302までの間が七八四三番に隣接しているのみで、その間に重大明白な瑕疵があるから右処分は無効であると主張するので、この点を以下に検討する。
(1) 乙第一号証の一、二の境界査定簿及び境界査定図によると、境界査定番号の302から307までは七八四三番の東側との境界、307から321までは七八四三番の南側との境界として表示されていること、従つて原告所有の七八四三番は右302から307・316を経て321を結ぶ線の北側に存在するものとして表示されていることは既に述べたとおりである。
(2) ところで境界査定処分は国有地と民有地との境界を定めることを目的として行われるもので、隣接民有地相互間の境界を定めることを内容とするものではないのであるから、隣接民有地相互間の境界区分がこれによつて定まるものではなく、即ち右境界査定当時石井省一郎が所有していた隣接地七八四三番、七八四四番、七七八八番ロ号の相互間の境界が実際どのようになつているのかは、勿論境界査定処分外の事柄である。
(3) 而して既に述べたように、国有地と民有地との境界を査定するに当つては、公図や土地台帳やその他の書類に基いて隣接地所有者を調査し、その所有者を査定に立会わせてその意見を聞き、且つ公図や現地の地形地物附近の状況等を参考にして国有地と民有地との境界を査定するのであるが、その際隣接地の数筆が同一所有者に属するような場合には、その所有者は自分が所有する数筆の土地の地番界をゆるがせにして、実際の地番界と異る指示をすることがあり得ることも前述したとおりであり、そしてこのように数筆の隣接地が同一所有者に属する場合、その所有者が自分の所有する数筆の土地の地番界を誤つて査定官吏に指示し、その結果境界査定簿及び境界査定図に隣接民有地相互間の地番界が実際の地番界と異つて表示されたとしても、その境界査定は、国有地と、その隣接地である同一所有者に属する数筆の民有地との間の境界査定であることに変りはないのであるから、これによつてその境界査定処分の効力に何の影響も及ぼすものではなく、従つてその境界査定処分に重大明白な瑕疵があることにはならないのである。
(4) 今本件についてこれをみるに、本件境界査定処分が行われた当時、隣接地たる七八四三番、七八四四番、七七八八番ロ号が石井省一郎の所有に属していたこと、その境界査定に石井省一郎又はその代理人が立会つたものと推認せられることは既に述べたところである。そしてその際石井省一郎又はその代理人が右三筆の地番界をどのように指示したものか、その具体的事実を知ることは困難であるが、右乙第一号証の一、二と前述した査定の経緯からすれば、実際の地番界がどのようになつているのかはともかくとして、査定番号302から307までの西側及び307から321までの北側は七八四三番であり、321から324までの西側は七七八八番ロ号であるとして指示したものと推認して差支えない。
(5) ところで、前記宇都宮地方法務局船生出張所及び塩谷郡船生村役場備付の公図(山岳図)と甲第四号証の図面とに表示されている七八四四番七八四三番を一括した形状は、東西に長く南北は狭く且つ七八四四番はその東側の部分が七八四三番よりも東方へ突出した形になつており、この形状を、乙第一号証の二の境界査定図に提示されている査定番号267から321までを結ぶ線によつて囲まれている七八四四番七八四三番を一括した形状と比較すると、その形状も縮尺の割合も非常に似ている。
これに反して、七八四三番が原告主張のように、別紙第二図面302から17・10・1・316・321(は)(え)307を経て302を結ぶ範囲であるとするならば、その形状は前記公図(山岳図)又は甲第四号証の図面に表示された七八四三番の形状と甚しく異つて来る。
(6) なお現場検証の結果によると、原告が七八四三番として現に占有している範囲は別紙第二図面中302から307・316・1・2・10・17を経て302に至る線をもつて囲まれた範囲で、その中央部には東から西に走る尾根があり、316から1・2・10・17を経て302至る間は沢になつており、その北方から西南方にかけて原告が七八四四番と主張する場所には別紙第一図面に示されているように東から西南に走る尾根があるので、右316から1・2・10・17を経て302に至る沢は一応七八四三番と七八四四番との境界であるかの如き観を呈している。
然しながら他方307から316に至る間も沢になつていて、302から17・10・2・1を経て316に至る沢と316において合流し、316から321に至り、更にそれより西方に向つて流れているのであつて、右307・316・321を結ぶ線も沢境として境界らしい観を呈しているのであり、
而して本件境界査定処分が行われた際に石井省一郎か又はその代理人が立会つて右307から316を経て321に至る沢の北側が七八四三番であると指示したものと推認されること、及び右境界査定処分について石井省一郎が死亡した昭和五年一〇月二〇日までの間に何の異議も申立てられなかつたことは既述のとおりであり、
更に原告本人の供述と証人斎藤信市郎の証言、並びに宇都官地方法務局船生出張所備付の土地台帳の記載によつて当裁判所に顕著なところによると、七七八八番ロ号、七八四四番、七八四三番等の山林は、石井省一郎死亡後石井正愛が相続し、同人は昭和二七年五月八日に七七八八番ロ号を斎藤信市郎に譲渡し、次いで同年六月二七日に七八四四番を一三筆に分割してこれを多数の者に譲渡し、更に昭和二九年一二月頃に七八四三番を原告に贈与したことが認められるのであつて、このように同一所有者に属する地続の土地が次々に譲渡せられるに当り、各土地の境界の定め方が果して正確に間違いなく行われたのかどうか、その点の立証が十分でなく、従つて七八四三番と七八四四番との境界が果して真実に前記302から17・10・2・1を経て316に至る線であるのかどうかも証明が十分であるとは言い難い。
而して以上述べた諸事実からみると、原告が主張するように、真実302から307を経て316に至る間のみが七八四三番に隣接し、316から321までは七八四四番に隣接しているのかどうか、にわかに断定し難い。
(7) 仮りにそうであるとしても、既に述べたように、本件境界査定処分が行われた当時は、七八四三番、七八四四番、七七八八番ロ号は同一人の所有に属していたのであつて、右境界査定処分は国有地と隣接民有地との境界を定めたもので、隣接民有地相互間の地番界を定めたものではないのであるから、同一人の所有に属する隣接民有地の地番界の表示に喰違いがあるとしても、それは境界査定処分の効力に影響するものではなく、その処分の内容に重大明白な瑕疵あるものとは言い得ないのである。
従つてこの点に関する原告の主張も理由がない。
(七) 更に、原告は、七八四三番が現在原告の占有している範囲のみであるとすれば、その実測面積は公簿面積の約三分の一しかなく、甚しい不都合を生ずると主張するが、この主張は、七八四三番と七八四四番の境界が原告主張のとおり間違いないことを前提とするもので、右境界が前述の如く、必ずしも正確なものであるとは言い難いのであるから、この主張も右境界査定処分の内容に重大明白な瑕疵があることの根拠にはならない。
(八) そうすると、本件境界査定処分が無効であるとの原告の主張は、いずれも証明不十分で、立証責任を尽し得なかつたから、採用することができない。
従つて本件両土地の境界は、被告主張の如く、右境界査定処分によつて、乙第一号証の一、二の境界査定簿及び境界査定図記載どおり302から307(この間は当事者間に争いがない)を経て316・321を結ぶ線に確定したものというべきである。
よつて被告の主張を採用し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用し、主文のとおり判決する。
(裁判官 石沢三千雄)